小太郎のTCG雑記

名古屋でTCGをやっている小太郎というものです。趣味でやっているカードゲーム(主にMtG、ウィクロス、Z/X)と名古屋に関することをテキトーに書いていこうと思います。

織田信長の弟と息子たちの話

以前友人たちと話していて「織田信長の弟や息子はろくなやつがいない」という話になりましてね

実際、信長が本能寺で亡くなった後はどうだったのか?をまとめてみました

まず、信長が亡くなる前に死んだやつらを列挙します

 

1555年

織田秀孝(信秀八男) 無礼討ち(偉い人だと気づかれなかったため殺された)

1556年

織田信時(信秀六男) 切腹

1558年

織田信勝(信秀三男) 謀殺

1570年

織田信興(信秀七男) 戦死(自害)(伊勢長島一向一揆との戦い)

織田信治(信秀五男) 戦死(宇佐山城の戦い)

1574年

織田秀成(信秀九男) 戦死(伊勢長島一向一揆攻め)

 

また本能寺の変で一緒に死んだのは以下の人

織田長利(信秀十二男)、織田信忠(信長嫡男)、織田勝長(信長五男)

 

それでは残りの人

織田信包(信秀四男)

本能寺の変後は豊臣秀吉に従い、伊勢津城にて過ごす(織田信孝と対立したため)

しかし小田原征伐で北条家の除名嘆願をして改易され、のち秀吉の御伽衆となり丹波国で復帰

関ヶ原の戦いでは西軍に属して参戦したものの、特に罪は問われなかった

大阪の陣でも豊臣側として参戦…する予定であったが、直前に喀血して急死してしまった

 

織田一門の中では別格の地位を与えられていたといわれる織田信包ですらこのざまか…

 

 

織田信照(信秀十男)

信長死後は兄である織田信雄の家臣となる

小牧長久手の戦いでは秀吉軍に敗れて捕虜となり、戦後また信雄に仕える

一門衆として重用されたらしいが、特にこれといった活躍は伝わっていない

愚鈍な人物としての逸話もある

 

 

織田長益(信秀十一男)

織田信忠とともに二条城で本能寺の変を迎えるが、信忠とは異なり脱出する

その後織田信雄に仕え、小牧長久手の戦いや関ヶ原の戦いでも徳川側として従軍する

しかし関ヶ原の戦い後も豊臣家への出仕を続けており、大坂夏の陣直前まで大坂城にいたものの、穏健派であった長益は合戦前に大坂城を離れた

その後は京都で茶道に生き、茶道有楽流を創始するなど活躍した

現在も残る東京の有楽町は、織田長益の号である「有楽斎」が由来である

 

 

織田信雄(信長次男)

本能寺の変後の山崎の戦いでは、甲賀まで進軍したものの合戦に参加はせず

織田信孝と対立したため秀吉と手を組むが、安土城から退去させられたことを根に持って徳川家康と手を結ぶ

小牧長久手の戦いでは家康に無断で勝手に講和したため家康敗北の原因を作る

小田原征伐後の論功行賞で移封を拒否したため改易させられ、烏山に流罪となった

文禄の役後に徳川家康の仲介で赦免されるが、関ヶ原の戦いでは傍観したためまたもや改易

戦後豊臣家へ出仕するものの、大坂冬の陣直前に徳川方に寝返った

 

寝返りに寝返りを重ねた無能オブ無能

無能故に最終的に放置され、悠々自適な生活を送れたのは幸せだったのか…

 

 

織田信孝(信長三男)

山崎の戦いでは中国大返しで帰還した秀吉と会見し、名目上の総大将となる

清洲会議で後継者である三法師の後見役となったが、天下人かのような振る舞いをした秀吉に対し反目し、同じく不満を持っていた柴田勝家に接近する

三法師の引き渡しを拒否したため秀吉と織田信雄に攻められて仕方なく引き渡す

しかし柴田勝家は賤が岳の戦いにて敗死し、滝川一益も秀吉に敗北したため行き場をなくし、織田信雄の命で自害した

 

 

羽柴秀勝(信長四男)

中国征伐で初陣を迎える

その後清洲会議で信長の後継者となるかとも思われたが、秀吉から推挙されなかったため幻に

賤ヶ岳の戦い、小牧長久手の戦いにも参戦するが目立った活躍はなく、1585年に病死した

 

 

織田信秀(信長六男)

生没年不詳、活躍は特に伝わっていない

九州征伐、朝鮮征伐に参加し、羽柴性と豊臣性を賜っていることは伝わっている

キリシタンでもあった

 

 

織田信高(信長七男)

本能寺の変後、家臣の氏家行弘のもとで養育を受ける

兄である織田信秀が羽柴性を与えられた際、羽柴家に出仕する

関ヶ原の戦いでは恐らく西軍に属し所領を失ったと思われる

1603年に死去

 

 

織田信吉(信長八男)

1583年に秀吉に召し出されて羽柴性を与えられる

関ヶ原の戦いでは西軍に属して大谷吉継の前備えをなした

戦後改易となり、大坂ついで京都に暮らし、1615年に死去

活躍は特に伝わっていない

 

 

織田信貞(信長九男)

本能寺の変後、秀吉の馬廻となる

関ヶ原の戦いでは西軍に属して改易される

大坂の陣では徳川方として参戦し、1624年に死去

活躍は特に伝わっていない

 

 

織田信好(信長十男)

本能寺の変の際まだ幼少だったため羽柴秀吉に預けられる

茶人であったと伝わるが、その他活躍は特に伝わっていない

 

 

織田長次(信長十一男)

本能寺の変後、羽柴秀吉馬廻となる

兄である織田信吉とともに大谷吉継の前備えとなるが、兄と異なり戦死した

活躍は特に伝わっていない

 

 

織田信正(庶長子)

本能寺の変の際二条城にいたが、織田長益とともに落ち延びる

1585年に早くも隠居し、1647年に死去するまで活躍は特に伝わっていない

壬生一郎氏の小説「信長の庶子」の主人公である